狂牛病危機とEU共通農業政策の転換
−集約的化学農業と大量家畜飼育の危険性−
ミヒャエル・エ−ルケ
訳・解説 労働運動研究所 柴山健太郎
いずれにせよ、今回の狂牛病危機で農業経営だけでなく、食品産業・化学肥料・農薬・農業機械産業など関連産業でも今後一万人が職を失うという予測もあり、EUが今後共通農業政策の転換を含め重大な政治問題に発展することは必死である。このエ−ルケ論文は、狂牛病危機の発生原因、集約的化学農業や家畜大量飼育さらには遺伝子工学的農業への転換に伴うリスクの大きさ、EU共通農業政策や社民党の農政転換など広範な問題を論じている。 (訳・解説 柴山健太郎)
狂牛病危機は、時期的には在来型農業から遺伝子工学的農業への移行の決定的局面に発生したが、−この危機はこの移行に影響を与えるだろう。遺伝子工学の方向への前進は、狂牛病危機により、市場または工学的に制御される固有法則に基づいて進行するのではなく、政治的決定過程に含まれなければならない。このことは、この前進を修正し、中断し、または遅延させることができることを意味している。というのは狂牛病危機が遺伝子工学的および在来型農業に取って代わるエコロジ−農業の概念を俎上に乗せたからである。狂牛病がはっきり表面化させた在来型農業のリスクは、間接的に遺伝子工学的農業の潜在的リスクをも明らかにした。この場合、在来型から遺伝子工学的農業への移行が−正しいか否かは別として−リスクという次元で、在来型エネルギ−から原子力エネルギ−への転換を連想させたのである。
したがって、狂牛病危機がたとえ限定的なものであっても、チェルノヴィリ原発事故と類似するものとして見られること、つまり政治が、市場に制御されると同時に、または技術的発展の固有の推進力をコントロ−ルし、または停止させることを強制する危機と見られていることは、まったく納得しうることである。この危機は、技術的発展と同時に治安政策的な次元を包含している。つまりこの危機は感覚的な経済部門の例で、市場過程からの正当な到達範囲と政治的干渉の正当で必要な空間−例えば消費者保護の範囲内で−をテ−マ化したのである。いま欧州農業はいずれにせよ部分的には市場によって制御されている。つまり欧州農業は官僚主義的政府の産物であり、そのまさに怪物のような特徴は政治的経済干渉の有害性の最上の実例を示すのに適している。特に狂牛病危機が理想的な市場ではなく、高度に規制された市場で発生したという事実は、市場の責任を軽減するものではなく、官僚主義的干渉の、この場合はEUの目的と機能に対する新たな問題を投げかけている。
狂牛病はどのように広がっているか?いまこの問題をめぐって二つの理論が争っている。両理論とも、この病気が自然特別変異(spontaneous mutatation) により散発的に発生し得るという点から出発するが、説明を要するのはなぜこの狂牛病が八〇年代終わり以降にイギリスで大量発生したかということである。イギリスでは現在まで全事例の九九%が記録されているのである。現在支配的な理論によると、狂牛病は肉骨粉の給餌により突然変異した蛋白質(プリオン)に侵された狂牛病の子牛の組織が健康な動物に感染するという。動物給餌の実施は、めったに起こり得ないような突然変異により疫病を発生させるが、子牛肉の消費によりクロイツフェルト・ヤコブ病(vCJK)
の変種の形で人間にも感染するおそれがある。これに対し第二の理論は、狂牛病の原因は環境汚染物質や重金属、殺虫剤にあるとしている。もっと厳密に言うと、銅欠乏、マンガン過剰、化学的誘発剤−神経ガスを基にした殺虫剤のフオスメット−などの諸要因の組み合わせが、遺伝子組み替えの子牛の脳内で蛋白質の突然変異を誘発させるのだという。むしろ人間のクロイツフェルト・ヤコブ病(vCJK)
と牛の狂牛病とは同じ組み合わせなのである。
それでは狂牛病はなぜイギリスで発生したのか?第一の理論によると、肉骨粉の生産の時に所定の基準が守られず、給餌の禁止も遅れてしかも管理の不十分だったという。第二の理論によると、この病気はイギリスで発生したのは、イギリス農業が新しい農業技術の下で先駆的役割を演じ、害虫駆除にフォスメットを使用したからだとしている。イギリス農業は他の欧州諸国より近代的で効率が高い。イギリスが新手の被害の先駆者になったのもそのためなのである。
この第二の理論は、狂牛病を疫病としてではなく、環境病として論じている。これらの理論の相違は、この現象を政治的に取り扱う際に決定的な結果をもたらす。もし第一の理論が正しいと立証されれば、この疫病は感染した保有家畜を処分や伝染経路の遮断−つまり肉骨粉の給餌の禁止もしくは子牛消費の中止−などにより人間への感染を防止することができる。この理論では狂牛病の感染の勢いは激しいが、食い止めることができる。だが第二の理論が正しいとすれば、狂牛病症候群は集約的農業と家畜の大量飼育がもたらした数多くの問題のひとつに過ぎない。こうなると狂牛病対策はあまり劇的−動物の大量屠殺または子牛消費の中止−ではないが、原因はもっと複雑で、局限することはもっと困難である。疫病理論では明確な目的を持つ直接的で減退された行動を強制するのに対して、環境理論では解決策に経済方式−集約農業と大量飼育−を挙げる。環境理論は、発達した産業社会が廉価な食料品(および消費選択の拡大)を利用するために支払わねばならない不可避的な代償を越えたクロイツエル・ヤコブ病を発生させた原因を、経済方式の急激な変化にあると説明することができる。この理論によれば、クロイツエル・ヤコブ病の犠牲は農業の交通事故の死者のようなものであろう。
破廉恥行為か、制度危機か?
昔、農業には勤労者の大多数が働いていたが、いまでは全勤労者のわずかで急増する人口に十分な食料品を供給しているだけでなく、余剰農畜産物さえ生み出しているが、これは生産性の急激な上昇と生産工程の技術革新によるものである。そして農業は有機的物質を生産しているので、生産工程が変化すれば生産物も変化する。農産物は純粋な天然産物ではなくて、化学的に変化した産物である。農業は他の現代産業部門と同様に「革新的」であり、不断に新たな生産工程、生産物、結合生産物を発明するが、それが人間の有機体に与える長期的な効果が未知なのはやむを得ないことなのである。したがって悪人だけでなく農業生産者はすべて生産性向上の圧力により、自己の顧客の健康を損ない、病気にしたり中毒にさせるリスクをおかすのである。
技術的進歩は、市場過程を通じて達成される。農業経営は、欧州でも厳しい緊縮財政下で運営されており、自らの生き残りのために生産性を向上し、コストを引き下げなければならない。農業における競争はコスト競争であって、品質や製品の差別化ではない。農業生産者や農業経営は自らの経済的存在を維持するために、例えば原料「牛」をできるだけ早く有利に活用しなければならない。これには自然が定めた成熟期間、食餌、運動、滞在慣習を例えば原料の「牛」に飼料や薬剤を添加することで計画的に操作することも含まれる。この原料は複雑な生物学的方式であり、自然的生存条件の変化に敏感に反応する。市場によって強制される動物の系統的な調整は必然的に製品欠陥を生み出すので、再び技術的な介入と医薬によって克服しなければならなくなる。例えば、大量飼育の鶏は丈夫な骨が育たないので、マンガンを与えるが、その九八%は排泄される。鶏糞とマンガンの混合物は再び牛に給餌され、マンガンの過剰服用が牛に危機的に(おそらくは恐牛病と)反応する。大量家畜飼育や化学的植物生産は、必然的に循環を不安定にし、交互にフイ−ドバック作用を強め、新たな補償的な介入をせざるをえなくなり、それが新しい介入を必要にするようになる。食物連鎖の終わり−人間有機体−を天然原料のこのような操作結果から切り離すことができるとはとうてい信じられない。
もし純粋な市場条件下なら、消費者は購入を拒否することによって生産者を罰し、態度を変えることを強制し、場合によっては破綻に追い込むことによって、自分を守ることができる。もし消費者がそのような行為に出ない場合には、消費者は少なくとも生産物に不満ではないことを意味する。もし消費者が摂取すると健康の危険をもたらすような安い農産物の方を選択する傾向を強めた場合、また購入決定の動機を食料品の品質の高さや安全性よりも価格の安さに求めた場合、市場経済の条件下ではもはや主権者の判断に反対するわけにないかない。集約的農業や大量家畜飼育に対する倫理的な憂慮は、事前に政治市場や選挙による決定により法的枠組みに改正が行われる場合を除いて、市場にはまったく影響力を持たない。主権者である消費者の判断の前提はいうまでもなく安い食料品を手に入れた場合に自らが引き受けるリスクを知っているということであるが、これは通常存在しないような前提である。狂牛病危機の勃発する前に、カレ−用ソ−セ−ジが何で製造されるか知っている人はいただろうか?
しかもこれに加えて、欧州農業は純粋な市場原理に基づいて組織されたものではなく、市場と非市場の組み合わせなのである。欧州農業はコスト効率と生産性が有効な限りにおいて市場経済のように機能し、欧州農業は消費者が、消費者の購入決定によって生産者の行動に事実上影響を与える可能性を持たない限りにおいて、市場経済と同じような機能は果たさない。EU内部では、農産物価格は市場価格ではなく政治的価格であり、部外者には理解できないような条件で決定され、しかもその価格は「市場を排除」するのではなく、生産者に「相応な」収入を保障することを意図しているのである。もし廉価な輸入で生産者への相応な収入を保障する価格水準を下回るおそれがある場合、その輸入は禁止され、価格が引き上げられる。もし輸入制限にもかかわらず農産物に対する欧州の需要が不十分な場合、EUは農産物の買い上げや備蓄や補助金付き輸出により必要な追加需要を創出する。言い換えれば、欧州人が農産物の消費者として支払う意思がないならば、欧州人は納税者として支払うのである。欧州の農業生産者が算出し、投資リスクを測定しなければならない製品価格は、EUの干渉価格である。EU補助金は効率性の観点で決められ、環境保護や品質、適切な家畜飼養または消費者保護に基づいて与えられるのではないので、生産者はリスクなしにまた品質の観点を無視してコストの安い大量生産に集中することができるのである。欧州農産物価格は、価格の機能を満たしている。この価格は供給を生み出す。だがこの価格は第二の機能である供給を制限(もしくは消費者の利益のためになるような構造を持っていない)。
このような農業制度の結果は、これまでもしばしば苦情が出されてきた。つまり、欧州農業は計画的に余剰−牛乳の海、バタ−の山−を生産し、非常に高いコストで備蓄され、処分され、輸出されてきた。共通農業政策は、大農業経営に有利である。というのは、補助金の額は生産額によって決まるからである。小農民経営は巨額の補助金を支給される農業工場との競争には勝てないことが多い。消費者は実際の市場条件下で支払わなければならない食料品価格より高い価格を支払う。安いコストで生産された欧州以外の供給者からの輸入は妨害され、補助金付きのEUの輸出は国内でも第三国の市場でも欧州以外の生産者たちを阻止している。
こうした欧州農業制度の不合理な諸結果から、さまざまな結論を引き出すことができることはいうまでもない。一方では、最近オット−・グラ−フ・ラムズドルフが『フランクフルタ−・アルゲマイネ・ツアイツング』紙の論文で述べたように、共通農業政策全体をを官僚主義的経済運営の権化として拒否し、食料品産業を完全に市場に委ねることができるという考えである。もう一つは、共通農業政策に対する批判は実態よりは補助金の目的に向けられているということである。EUが農産物の品質、消費者との合意により、または消費者を代表して農業生産物の品質、適切な家畜飼養またはエコロジ−的均衡の保持を確保するために、市場価格より高い価格を許容することは考えられることであろう。補助金支給は、生産者の利益のために行なわれ、農業政策は再分配的であり、しかも生産量の向上に報いる形で行なわれる。最近になって初めて共通農業政策は部分的に改革され、生産補助金は生産者への直接的な所得移転で行なわれることになった。
欧州農業の体制と頻発する食料品スキャンダルは、下記の三種類の方法で相互に関連している。
−第一に、欧州の農業企業は不断の、事情によってはリスクの多い生産革新(価値の低い材料混合を含め)が強制する競争条件とコスト圧力の下で経営されている。
−第二に、消費者は、購買決定により供給を左右する可能性を殆ど持っていない。
−第三に、しばしばエコロジ−的に有利な条件で生産された欧州以外の農産物の入荷は阻害されている。ラテン・アメリカの牛肉はその一例であろう、競争制限(輸入割当)と競争の組み合わせにより、欧州の生産者は自己の「本来の」立地上の不利を技術と医薬によって埋め合わせることが出来−またそのように強制され−たのである。
無意味なことで定評のあるこのような農業政策を継続する原因は、この政策で冷遇されている人々が反対できないこと、または反対することを望まない点にある。この農業政策に文句を言う人は、いつも新自由主義的な経済学者か、またはエコロジ−的考え方を信奉するジャ−ナリストたちであり−少なくとも消費者はこの政策を受け入れているのである。これまで改革を推進してきたのは消費者、環境保護論者または動物愛護論者の抗議ではなく、EUの貿易相手−まず第一にウルグアイ・ラウンドの過程でEU農業政策の改革を強要したアメリカ−またはEU農業政策ではまり込んだ袋小路からの脱出を求めざるを得なくなったEU官僚自身であった。共通農業政策のコストは、再三にわたりEU予算を破綻で脅かした。消費者もしくは非農業人口の受動性の原因がどこにあるかといえば、欧州農業が少なくとも一つのことを達成したことにあるだろう。それは農業生産物の価格と家計に占める食料品支出の割合を欧州でも継続的に低下させたことである−このことが経済的合法則性(エンゲル係数)で実証されていることは言うまでもない。
さらに農業がマ−ジナルな規模に縮小しているポスト工業社会における食料品の生産と消費が工業製品の生産と利用とは異なる意味を持つということが加わる。食料品の摂取は選択ではなく、生存維持の基本的過程である。有機体による有機物質の摂取は無機物質の生産の扱いとは異なる感性的な要素がある。つまりコンピュ−タの故障に対する我々の反応は魚の中にゴカイを発見した時とは異なるのである。漠然たる不安の原因は、生物学的生存の基礎である食料品摂取が市場によって、つまり無名の需要・供給運動によって左右されることにある。まさに食料摂取を例にとると明らかなように、EUの現代市民が自らの自己生存維持の条件に関して行うチェックはネアンデルタ−ル人よりはるかに小さいのである。恐らくこのことが消費者が食料品生産者を生産者それ独自として、少なくとも「現代」工業紛争とポスト工業社会の見通しの不分明さから部分的に逃れる特別な職業の最後の代表者とみる理由といえよう。
需要者は、「供給者側」に強力に組織された、闘争好きで、欧州大陸の殆どの諸国(イギリスやスカンジナビアでは比較的よわいが)で政治的保守主義と結合した農民層に自らの対極を見いだすことが多い。このような共生は欧州の社会史−すなわち現在もなお続いている政治的な多様性が形成された一九世紀の−から生じているのである。農民層は、農業に基礎をおき、しばしば教会的色彩を帯びた保守主義の昔からの大衆的基礎であり、都市における自由主義や社会主義の優位(実際の、または懸念された)に対する均衡をとる錘だった。保守党やキリスト教民主党が農民層が自らの特殊な職業的一体性を失い、「現代的な」工業プロレタリア−トと資本主義的経営の間の対決に巻き込まれることを絶えず阻止しようと努力してきたのはそのためだった。だから地理的・経済的観点(地域的な気候や土壌条件の相違に伴う)や社会的観点(農村工場対小農民)での農民層の分裂を、ますます人工的になる農民層の職業的統一性のイデオロギ−によって粉飾せざるを得なくなった。
保守主義・農業の共生を助けたのは、農業団体、都市の農業官僚及び、議会や世論から身を守って農業の政治的枠組みを決める保守的な農業政治家の「鉄の三角形」だった。この国家的レベルでの鉄の三角形は欧州レベルでも再生産される。EUの農業委員の大半は、保守政治家(フランズ・フイッシャ−は保守のオ−ストリア国民党の党員である)、農業を管理監督する理事会官僚−人材面でも財政的にも最高の資源を持つEU官僚であるが−、大半が保守党の主導するフランス、ドイツ、アイルランドの農業省、及び農業生産者の欧州の利益代表−専業農民団体(COPA)は、人材、財政的資源および組織度に関しては、他のすべての国際的利益団体よりも協力である。国内的にも欧州レベルでも農民が強力な代表権を有していることが、EUが欧州以外の取り引き相手やEU予算や将来の東欧への拡大による限定的な改革の圧力の下で行われる際に−再び農民の大半がEU農業政策に対して最も声高に抗議する存在になることはいうまでもない。
欧州共通農業政策が成立した原因は、比較的狭い意味ではフランスとドイツの妥協によるものである(ここではイギリスもスカンジナビア諸国も欧州経済共同体の構成国になっていなかったことが重要な意味を持った)。効率のよい農業を持つフランスは自国の産物を特にドイツに販売するために開かれた農業市場を主張した。細分化された弱体な農業と、強力な工業を持つドイツ連邦共和国も同様に農業市場開放を主張した−そのことの意味はドイツがある範囲内で農業の利益を工業の利益の犠牲に供することになろう。だがこれは不可能だった。そこで農民ロビ−とキリスト教民主党は、農業を経済形態それ独自としては保護しなければならないということで合意した。その合意が欧州共通農業政策に移行することだった。
社会民主主義政党は、いまだかって国内の総合農業政策でも欧州農業政策に関しても真剣に議論したり、または取り組んだりしたことはなかった。欧州大陸の社会民主政党で(スカンジナビアと異なり)、農民層のなかの民主的または農業革命の伝統を受け継いだ党はほとんどなかった。社会民主党の農業政策は(連立政党の完全には任せられない限りにおいて)、農民と保守主義の結合を弱める展望もほとんどないままに、通常は可能な限り農民の要求を受け入れ−またそうしない場合には他の諸分野に取り組むことによって、農民を「温和しくさせ」ることに限定した。農民の高度の動員力、農民の大型農業機械の使用とすぐに腕力に訴える習性は(外務省の場合と異なり、テ−マが決まっていない。これは農業の特別な立場のもうひとつの証明であるが)、目に見える農民の抗議を、すべての特にすべての社会民主党政権の悪夢にした。欧州農業政策のパラドックスである−小農民を犠牲にした−大農業経営への補助金の集中の問題は、社民党の側から取り上げられたことはいまだかってなかった。事実、農業政策の中心を消費者保護と規定した二〇〇一年一月の農相交替を上からの革命に匹敵するというのはそのためなのである。その前提は下からの革命、つまり購入停止によって瞬時にして牛肉市場を崩壊させた消費者の革命だったのである。